孫の稔の周りで


『淋しい狩人』は引っ越しの際、処分してしまった宮部みゆきの本だ。
東京下町で、小さな古本屋を営むイワさんと孫の稔の周りで繰り広げられる数々の事件のお話である。
短編シリーズの形で非常に読み易い。
お約束の様にありふれた平和な日常生活に戻るのが、母の介護で必死だった当時の私にはとても嘘っぽ高壓通渠く思えた。
身辺が落ち着いた今、その穏やかな世界が無性に懐かしくて図書館で探した。
有難い事に本は直ぐに顔を見せてくれた。
パラパラ頁をめくって『黙って逝った』の中の一節がパッと目に留まった。
「老年は秘密を抱いて死んでゆく」

ストーリーは以下の通りだ。
別居して一人暮らしをしていた父親が、風呂屋で心臓麻痺を起こして死ぬ。
冴えないサラリーマンだった父親を一人息子は軽視していた。
ところが、遺品整理している最中、父の本棚に自費出版の同じ本ばかり並んでいることから見方を変える。
自費出版の本は父親と縁もゆかりもない、世間的な成功をおさめた男の定年後のボランティアlaser 去斑の話で、そこには個人情報に関わる出来事がかなり語られている。
そして、著者はこの本を出版して三ヶ月後に、謎の死を遂げた。
何者かにスパナで頭を殴られ惨殺されたのだ。
息子はあれこれと想像力を膨らませて、著者がプライバシーに触れられて怒った何者かに殺されたと考える。
そして、自分の父親はその鍵を握っていて、黙っていたのだと。
父は小心者ではなく、命をかけて犯人を威嚇する人だった。
父親を見直す形になり、警察に事件の真相の調査を依頼する。
そして、真相は判明した。
息子の推理の半分は当たっていた。

著者は他人のプライバシーを無作為に冒してしまったために殺された。
しかし、病死した父親は、真相を全く知らなかった。
父親は歳を取って白内障になり、自分の蔵書をイワさんの古本屋に売って、本棚を空にした。
その代わりに、買い手がつかない自費出版本を著者の名誉を守る為に預かったのだ。
平凡に甘んじたこの父は、死ぬまで全くの善意の人だった。
他人の秘密に全く触れない善意である。
私は、昔ざっと読み過ごしたこの章を、見直す思いがあった。
この本が書かれたのが平成5年區塊鏈運用宮部みゆき30代の時である。
この頃、自分のプライバシーも、他人のプライバシーも、本当に無邪気に考えていた時代だったと思う。
しかし、プライバシーの問題をあだやおろそかにすると怖い事になると宮部みゆきは30代にして心得ていたのである。
多分、速記者というプライバシーを扱う仕事の経験が活きていたのだろう。
改めて思った。
殆どの心ある大人が、幸せだった事も、辛かった事も、人を傷つけてしまうような大事な秘密は黙っているのだと。

新潟の夏は意外

本日夕方、嫁のツトメを果たして無事旦那の実家がある新潟から湘南の地へと帰ってまいりました(≧∇≦)/
義理の両親はいい人なんですけど、やはり『旦那の実家』という場所は気を使うのですよ(^_^;)自宅の気楽さにはかないません。

そして意外と思われるかもしれませんが、新潟の夏は意外と暑い/(^o^)\冬はたくさんの雪が積もる東北地方だから、夏も涼しいんじゃないかと思うじゃないですか。しかし20年近く毎年通っていても関東よりも涼しいと感じることはそれほど多くないのです(´・ω・`)
その理由のひとつと思われるのがフェーン現象。太平洋側からの南風が山を超えて新潟に吹き付けるとかなり高音になるのです(>_<)今回は台風からの風もあったのでそれがひどくって・・・それもあるのか、さらに帰宅時、車の中でず~~~~~っと日差しを浴びていたからなのか、只今旦那が軽い熱中症っぽい症状で私の横で寝込んでおります/(^o^)\
更に私もカロリーの高いものを食べまくり、ろくに家事もしない3泊4日を過ごしたにも関わらず体重が減っていたと言う・・・間違いなく水分だけど(-_-;)
8月もようやく半ば、暑い日が続きそうですので、まだまだ油断は出来ません(>_<)

帰省中にも拍手コメントありがとうございます(*^_^*)お返事、以下に書かせていただきますね~(^.^)/~~~

楽しいのは鉄板

昨日は君とのお待ちかねのデートの日だった。

やはり君は5分ほど遅れて、、、

可愛らしくビョコリンと登場した🎵

君は忘れ物をしたと言っていたが、、、もちろん君が遅れてくることは想定内だ(笑)

マスク姿が痛々しかったが、会えて良かった。。それにしても、可愛いにゃ~😻(笑)

フェルメールを見に行こうねって言ってたのにrestylane 價錢、当日券で大丈夫だろうと高をくくって予約をしてなかったのだが、、、、

あまりの混雑で当日はなかった、、OTZ

これは僕の計画性のなさを表す失態なのだが、、君は、、

「そっかぁ、んじゃプランBだね☺(笑)」

と、楽しそうに笑っていた。

ちなみに、そのプランBは僕が内心冷や汗をかきながら、、グルグル考えていた。

すると、駅でもうひとつのポスターを見たのを思い出した。

『✨ムンク展✨』

まぁ、ほんとはフェルメールが見たかったのだけど、ムンク展も叫びが初来日らしいので、、まぁ、、そこまで好きな作品ではないが見に行こうってことにした。

結論から言うと、、、なかなか良かった🎵

そもそも君と一緒にいるだけで楽しいのだから、楽しいのは鉄板なのだけど皮秒激光效果、、純粋にムンクの精神と成長の旅を見ることができた。

絵画でもブログでも心に闇を抱えているものの方が印象的である。ムンクも例外でなく、青年期や壮年期の絵には性と闇があった。

接吻↓印象的で素敵だった。

マドンナ↓胎児と精子が描かれている。

しかし、生活も安定してきた老年期には穏やかで暖かみのあるタッチでさらりとしたイメージのものが多かった。

歴史に残るような音楽や美術には、一種の狂気が必要なのかもしれない。

ムンクは叫びばかりが注目されるが、他の作品の方が好きなものが多かった。

「僕は見えているものを書くのではない。僕は見たものを書くのだ。」

つまり、ムンクが感性の目で見たものを書いているのが冷凍溶脂 價錢、あの絵なのだ。

ってなことを君と話ながら、お互いの解釈を交えて話していたら、あっという間お昼になってしまった。

そのあと、お昼にしようってことでアメ横散策。なんだか、アメ横は年の瀬の匂いがして、人でごった返していた。

君と手を繋いで歩いて、ついた先は昭和の香りのするガード下の焼きとん屋さん(笑)台湾やタイのアジアンなカオスな雰囲気が旅のように僕らの心をトリップさせたんだ。

可愛い君と、美味しいね🎵って、食べて飲んで、、、絵の話や、仕事や家庭の話など、たくさんの話をしたね。君はニコニコたくさんの笑顔をくれたっけ。

楽しかったなぁ。。

しかもまだ最後ま

まずい事に今日6話が放送されてしまいました。なにも無理して書くこともないのですが、お休み無しで感想を書いているので、一応、書いておく事にします。


このように書くと何やら偉そうな感じですが、私、これ、本当に途中でなんとなくうつらうつらと寝てしまいました。録画してあるので安心してしまったのもいけなかったのかも知れません。それをまだ最後まで見ていないのです。それでとうとう今日になってしまったのです。

だけど面白くてもこの時間は結構危ない時間なのですが、そうでなくても、あまり好みではなかったからかもしれません。

なんだか(ドラマ的には)面白い殺人計画を立てても、いろいろとドジで、またはタイミングも悪く(逆に言えばタイミングが良かったとも言える)失敗ばかりしている星野は、陣川枠の新たなキャラなのかと思ってしまいました。

だからと言ってこういう物語も好きな方も多いと思うので、しかもまだ最後まで見ても居ないのに、悪く言う点は特にないです。


だけど学校に右京たちが訪れて、三田が出てきた途端に、私は言ってしまいました。

「役者さん的に彼が犯人。」って。

こう言う事を言ってしまうのは、役者様の営業妨害になってしまいますでしょうか。

ここがサスペンスドラマの難しいところですよね。まだ事件の概要・動機なども推理さえできない段階なのに、役者がそろった時点で、とにかく犯人だけは分かってしまうって事があるじゃないですか。

だってこの三浦と言う役の人は、松田洋治さんで、HPのストーリーのページにはゲスト欄に名前を載せてないのだけれど、それはわざとだなと思いました。載せたら、先にHPを観た人は、私と同じように「あっ、この人が犯人」って思ってしまう人も多くなってしまうからではないかしら。


子役時代から活躍していて「もののけ姫」のアシタカの素敵な声の松田さんは、舞台「黙阿弥オペラ」でも藤原竜也さんと共演していて、好きな役者さんです。

「相棒」でも、シーズン8の8話でもゲスト出演していますね。同じように愛する人を失った復讐をする男の役であったと思います。

そういう役が似合うのかも知れませんが、切ないですね。


しかし星野と言う天文学者は、かなり行き当たりばったりの人ですね。これは何か一つを考えると他の事は考えられないと言うのと集中力があると言うのとは、違うのではないかと思ったりしました。

またみすみす狙われているのではないかと思う男を殺させちゃう展開なのかと、ちょっと不満にも感じました。

最後まで見て、何か見方が変わったり追記する事があったらするかもしれません。

仲間という言葉

30年くらい前だろうか、当時の僕が関係していた某キリスト教派の若い駆け出しの一伝道師が手紙で、その教派が(在日系などの)マイノリティや東南アジア、中南米、アフリカの人達への差別意識が強い人ばかりや、第二次世界大戦の時に当時の日本政府の戦争政策に協力した歴史を嘆く内容の事を書いた後、「人間も皆神によって作られたわけだから、全人類規模の仲間意識を持たないといけない。神の下の仲間意識を。この教派の人達は、世間同様に「日本人としての仲間意識」しか持てないから、外国系の人たちをバカにするようになる。困ったものだ」と書かれてありました。その後、その教派から僕が離れた事もあり、その人とは縁が切れましたが、「全人類規模」の仲間意識とは何なのか辦公椅、判らず、心に残ったわけです。一方では、多磨全生園で知り合った無教会派の別の伝道師は「仲間意識ほど、あてにならないものはない。個人と個人で付き合い、人は愛し合わないとダメだ」とも教えられていた。この2つは矛盾もしているようです。思い出し、特にキリスト教の基礎を築いたパウロが仲間意識について、どのように語っているのか、新約聖書パウロ書全部と、マタイ、ルカ書を全部読み、イエスパウロのその件について調べました。(「ルカ書」を選んだのは、ルカは医者で、最もイエスの言動を客観的に伝えていると聞いた事があるからです)。

パウロ関係ですが、「仲間」という文字は2つしか出てきません。内、一つは(教会内の)仲間争いという言葉です。「兄弟」という言葉は無数に出てきますが、仲間意識や仲間関係という言葉は全く出てきません。文脈の流れから言っても、そのような言葉が入り込む余地はありません。イエスの場合も、仲間という言葉は便宜上出てきますが實用禮物、敵対する派の事を指す言葉だったり。イエスの強調した言葉は有名な「隣人愛」です。それは敵も愛する強烈な愛。

無教会の人達の中には、「パウロの兄弟愛尊重は内向きで、イエスの隣人愛から後退している。世俗的な仲間意識と変わりがない」と言って批判されている方もいるようです。僕が拝察した限りでも、内向きになっている面は否めませんが、「兄弟」も人間の上に明確に神を置いた関係・愛であり、仲間関係や意識とは大きく違っているわけです。そこから、仲間関係・意識は人間中心の観念である事に僕は気が付きました。やはり、浄土真宗の「御同胞」が阿弥陀仏を上に置いたものであり、仲間関係・意識とは根本的に違うように。例の若い伝道師の発想は聖書から逸脱したものだと言わざるを得ません。その発想も、その教派の明治以来伝えられた発想の上に成り立っていてる。明治の日本人は国際交流の経験がまだなく、聖書もかなり日本流に解釈されたわけです。「兄弟」や「隣人」と、日本語の仲間の区別も付かなかった事は容易に想像できます。又、愛と仲間意識の混同とか。そして、兄弟や隣人の意味も日本的な仲間の意味を当てはめ、更には、愛の意味には仲間意識を当てはめ、それがずっと続いている。インターネットによれば、僕が去った後、その教派にはレイプというとんでもない事をした牧師が二人出て、特に最初の場合はその地区の牧師会が事実を隠ぺいまでしたそうです。いくら仲間でも悪い事は悪いとしなければならないのに痔瘡原因、仲間だからと思い、かばう感じでの隠ぺい。非常に悪いし、仲間関係・意識は愛とは本当に大違いである事も判ります。

視点を変えて科学的に見てみると、原始時代は人間としての仲間意識もあったようです。でも、人間の居住範囲が広がり、それにつれて、言葉も地域によって違ってくると、仲間意識も言葉ごとに分かれていき、言葉の違うグループには持てなくなった。更に、各地域に文化や生活習慣ができると、さらに地域ごとに通じなくなった。「あのグループは魚ばかり食べて気持ちが悪い人たちだ」みたいな差別意識の原型みたいなものも生れていった。更には、グループの経済利害も複雑に絡み合い、戦争も生れていったらしいです。仲間意識の分裂は文化を作った人間としての宿命であり、同時にそれは元々希薄な気持にしか過ぎなかった事も判ります。「全人類規模の仲間意識」なるものを仮に作っても、何の役にも立たないと思います。

その若い伝道師は某教派内の相次ぐ差別事件にいつも激怒していました。でも、仲間関係・意識の本質に気が付かず、自分も差別の種を撒いていたわけです。インターネットで検索したら、その人は2000年ごろ、何かの急病で天国に行きました。その教派はその後は更に衰退。仲間関係・意識中心の発想が強いとこうなるわけです。更には、それでは、個人と個人の関係ができないから、友情と恋愛はできないわけだし。それは僕が青春時代に多く目撃した首都圏の福祉会や身障会にも言えるわけです。特に、仲間関係と友情の混同が目立ち、個人の相互理解ができていないから、誤解からの大ゲンカが非常に目立ったわけです。僕の考え方としても、「仲間関係・意識は、差別と裏切りの始まり」だと思っています。そうではなく、愛が大切だと。

意味になったもので

過去に連載をしていたこともありますが、語源を知るというのは語学力プラス知的に楽しいプロセスになってくれます。

クレジットの語源は?

「クレジットカード(credit card)」でよく知られる credit という言葉はラテン語の「信じる」という意味の動詞credere という動詞の過去分詞から生まれた言葉で、「信じられること」から「信用できること」の意味になったものです。

現在では一般に「信用」「信用貸し」などの意味がよく知られていますが、映画などの配役字幕などを「クレジット・タイトル(credit title)」 というように「製作者、提供者を明らかにする」といったような使い方もします。

そこで「債権者、貸主」のことを「信用貸しした人」ということから creditor という意味になります。金融関係の人から「クレジット・ライン(credit line)」という言葉を聞きますが、これは「信用供与限度額」のことです。これは新聞、報道などでの「情報提供者」の意味もあります。

この他よく使われる派生語に 「credulous(信じやすい、だまされやすい)」、名詞形の 「credulity(だまされやすさ)」があります。直接の形容詞は 「credible(信じられる)」ですが、否定形の 「incredible(信じられない)」のほうが、「スゴい!」などの意味で、会話で連発されていますね。

また、キリスト教に詳しい人、バッハの宗教音楽などが好きな人でしたら credo という言葉をどこかで聞いたことがあると思います。これは「ミサ曲」の最初に歌われる条文で、一般に「クレド」(使徒信条)と訳されているラテン語で、「私は信ずる」という意味の活用形です。現代英語では creed と呼ばれているものです。

運ばれた後だった

今日の話はわたしがぎっくり腰をした日の事。

その日はシュートメさまが来る事になってて(チャーの誕生日のプレゼントを届けに)、その前に掃除機をかけてたらなったので日本租樓、シュートメさまが来た時わたしは、父ちゃんとチャーの手によって床からカウチに運ばれた後だった。

そしてシュートメさまが来て、わたしはトイレに行きたくなって父ちゃんとチャーに介助されてやっとトイレに行く事が出来たのだが、それを見てたシュートメさま

2人に助けられていいわね保鮮花

私もこの前なったけど誰の助けもなかったわよ

大騒ぎし過ぎよ~

って。

ってかあーた!!

あんたは動けたんでしょう?

あたしゃマジで動けんのだよ

あんたの場合はぎっくりじゃなく腰痛

あんたが動けなかったら大騒ぎするでしょ?

うちに電話が来てチャーか父ち葵涌通渠ゃんを呼び出すでしょう?

それもなかったんだから大した事がなかった証拠

いっつもあそこ痛いここ痛い

あぁ具合が悪いって電話して来るのはあなた


そう大声で反論したかった言葉をグッと飲み込んだのでした。

そう言えばわたしが頭を打った時も自分の予約をずらすのに不服だったんだよなぁ・・・。